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March 30, 2010

涼宮ハルヒの消失

とにかく土日は当日予約を入れようにもいつも一杯で、今回やっと前日に席を確保して観ることができた。館内は満員。特にメガネ男子の率が異様に高い。なんでだろうとちょっと考えると、それはたぶん物理的小理屈を理解しなければ楽しめないという作品世界の特性によるものではないかと思ったりする。ちょっと頭のいい奴のほうが余分に楽しめる、ということなのだろう。観客層のメガネ率の高さはすなわちそこそこ勉強のできる子が多いということなのではないかな。本作のメガネ長門でもあるまいしwww。(一応ネタばれ注意)

メガネの長門は無条件にかわいい。映画になろうがハルヒはハルヒの世界。その意味で安心感、安定感がある。本作を楽しむためには、最低でも長門の基本仕様を理解しつつ、『笹の葉ラプソディー』を復習していくこと。

自分が普通の女の子になっている世界を想像(創造)した長門の無意識が、例えばネットワークの混沌の中で生み出される電子的自我を擬えるものとして、なぜ長門は自身の無意識の暴走を知りつつキョンに世界を選択させようとしたのか。それがこの物語のメインテーマ。緊急脱出プログラムを起動させないとシリーズは終わってしまうので(オイラは普通の長門と付き合える世界の方が絶対いいと思うのだが)、キョンが脱出を選ばないはずもないのだが、ここで作者がパラレルワールドを採用していないのは(喫茶店での古泉の説明は案外重要)、やはり「選択する意思」について語ろうとするからなわけで(パラレルワールドにしてしまうと、それこそ何でもアリになってしまう)、それは“選択しないことも結局選択すること”であるポストモダンの思想につながるものであり、最後のメタ世界による修正も、その選択を正当化するために必要な処置でしかない。

キョンにつきつけられた選択とは、すなわち現実と向き合う勇気について考えることだ。難癖をつけていた日常(宇宙人がいて未来人がいて超能力者がいて全てをどうにかできる神のごとき少女がいて、自分の意に反していろいろな問題ごとに巻き込まれる日常)を、彼は守る立場に立つ。それは、自分の選択に対して責任を持つということであるし、選択した以上その世界に積極的に関与していかなければいけない。キョンに否定された長門の無意識下の願いは所詮泡沫の夢、仮初めの世界でしかない。でも、長門とは何者かであることを知れば知るほど、それはとても哀しいことなのだ(自分的に長門の世界が朝倉を再び呼び寄せた部分は謎。解答がどこかにあるのだろうか)。長門の叶わぬ望みとキョンの決意。オヤジにもジワッとくるものがある。

タイムパラドックスがまかり通るハルヒの世界で、いつかはこの作法がどこかで行き詰るのではないかと思いつつも、ご都合主義を上手く丸めこむ谷川流の物語力には潔く降参する。そして、作品に込められたメッセージは結構ストレート。高校生あたりのファンにしっかり届くといいなと思う。ジュブナイルとはそんなものだし、そうあるべきなのだから。

【追記】本作をもってエンドレスエイトを肯定するものではないことは言うまでもない。

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