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June 05, 2008

ミスト

スティーブン・キング原作のパニック・ホラー。鑑賞後は正直言って気分のいいものではない。小説ならば自分のペースでセーブできるし、嫌になれば読むのを止めることもできるが、映画となるとそうはいかない。強烈な映像がノンストップで襲ってくる。しかもその映像は“ひとつの解釈”として受け止めざるを得ないのだ。テーマとして「死」を扱っているだけに、これはきつい。たとえば、『ミリオン・ダラー・ベイビー』のように“個の尊厳”をよりどころとしていないために、映画オリジナルのエンディングはその解釈をめぐり賛否両論起こったのも無理はないように思う。いずれにしても重い作品だ。(R15指定)(以下ネタバレ)

The_mist_2 まずは、あらすじ。
ある嵐の翌日、息子と買出しに出かけたデイビッド(トーマス・ジェーン)は、スーパーで山から下りてきた霧に囲まれてしまう。霧の中には未知の生命体が潜んでいて、ヒトを襲っているのだ。スーパーに立てこもる人々。その夜、夜行性の昆虫とそれを捕食する鳥?の襲撃を受け犠牲者は拡大する。絶望に苛まされ自ら命を絶つ人も。宗教マニアの女性にスーパーの人たちが扇動されていくのに危機感を覚えたデイビッドは、有志とともにスーパーからの脱出を試みる。果たして、車に乗り込んだ5人はガソリンが続く限り南を目指す。彼らは霧の世界から抜け出すことができるのだろうか。

次に、ネタバレ。
霧とクリーチャーの正体は、軍が秘密裏に研究していた異次元世界の住人たち。おそらく、前夜の嵐によって施設にトラブルが発生し、向こう側とこちら側がつながってしまい、“霧”とともに侵入してきたのだった。スーパーを脱出したデイビッドたちだったが、 “霧”を抜け出す前に車のガソリンタンクは空になってしまう。5人は、残された4発の銃弾で自_殺することを選んだ(デイビッドが射殺。その中には自分の子供もいた)。そして、残ったデイビッドはクリーチャーの餌食となることを覚悟して車外に出る。しかし、彼の目の前に現れたのは軍の戦車だった。いつしか霧は晴れ、山からは助かった人たちを乗せたトラックが下りてくる。軍によって騒動は収束に向かうのだった(結末の15分は映画オリジナル)。

見所は3つ。ひとつは映画のカテゴリーとしての性格である、ホラーものとしてのクオリティ。欧米人の生理的嫌悪を催させる才能は天才的だ。登場するクリーチャーの不気味さ、残忍さ、そしてリアルさはこの映画の恐怖の根本といっていい。そして、舞台設定としてかかせない題名にもなっている“霧”の存在は、その恐怖を最大化するのだ。見えるのに見えない。ホラーによくある暗闇とは違った恐怖を演出している。実際、先に公開された『クローバー・フィールド』とは比べ物にならないぐらい怖い。あたりまえのことだが、恐怖心の共有は主観映像によって引き起こされるのではない。その場で起こっていること自体の切迫さ=身の危険度=襲われるかもしれないという状況に脳が反応するのだ。視点をどこにおいても起こっていることは瞬時に理解できるのだから、その作業の邪魔になるようなこと(『クローバー・フィールド』でいう映像の揺れ)は百害あって一理なしなのだ。それにしても、本作に出てくるクリーチャーはよくできている。CG中心とは思うが、ディテールの描きこみが凝っており、また、攻撃され方が相当に痛そうなのだ。その擬似的感覚が脳を刺激する。イソギンチャクの触手のようなものに食いちぎられるとか、蚊のでっかいのに刺されたあとの腫れ上がった顔とか、卵を産み付けられた人の背中から大量の子蜘蛛がわらわら出てくるとか、どうしてこうもリアルに再現するかな。昆虫系が駄目な人はまず見ないほうがいい(ほんとに見所なのかw)。
2つ目は原作のすばらしさ。ホラーの中で、人間の本質を暴き出す実験が展開される。情報の一切が遮断された状況では、ヒトは心理的不安定に陥る。“霧”はその象徴でもある。ラジオも携帯も使えず視界まで閉ざされると、しかも、身の危険が迫っているとなれば、人間は不安で正しい判断ができなくなる。情報がないことで予断が働き、それが推測となり事実とは違った方向に捻じ曲がっていく。不安に耐えかねた人間は安定を求めようとする。その人の心の動きを上手く利用して集団がコントロールされていく様が描かれている。ここでは「宗教=信仰心」が安定剤の役割を担っているが、たとえば攻撃対象を提示することだけでも十分機能するのだろう。人間にとって「情報」とは「生死」に直接的に影響するほど重要なものなのだ。
謎解きをベースとしたSFチックなサスペンスを得意とする監督がいる。ナイト・シャマランだ。彼の作る映画は“設定命”の映画だ。謎解きが本題としてあって、その周辺に人間ドラマらしきものを組み込む。なので、ストーリーは予定調和的だし人間の描き方も浅く感じてしまう。謎そのものにインパクトがない場合は目も当てられない作品になる。ただ、この『ミスト』を見てしまうとシャマラン作品ぐらいが他愛もなくてちょうどいいと思えてくるから不思議だ。
そう思う最大の理由が3つ目の見所。エンディングにおける「死」の解釈についてである。絶望的な状況におかれ、人はどのような道を選ぶのか。無謀と思われてもチャレンジして化け物に食われる人。助からないと思い自ら命を絶つ人。なすがまま、ただ呆然と立ちすくむ人。中でも主人公デイビッドたちが最後に取った行動には個人的に疑問が残る。デイビッドが助かったのは結果論としても、究極の状況にあって子殺しも許されるのか。「化け物に自分を殺させないで」という子供との約束を自らの手にかけると解釈したデイビッドの判断は果たして親として人として認められるのか。車が動かなくなったから終わりという短絡的発想も人間として情けがない。ヒトは考える生き物のはずだ。どんなに追い詰められても窮地を脱するために知恵をめぐらせることができる。鋭い牙や毒のある針を持たない代わりに、ヒトは考える頭脳を武器として生き抜いてきたのではないか。動物としての人間の特性を否定するということなのだろうか。それは、あまりに悲しすぎないだろうか。それほどヒトは弱いものなのだろうか。なぜ、彼らは生きることをあきらめてしまったのだろう。異生物に蹂躙される恐怖から逃れるため?痛いのがいやだから?綺麗なまま死にたいから?どこか釈然としない(それ以前に、ガソリンスタンドを探すとか、ガソリンがたくさん入っている車に乗り換えるとか、ラジオをつけるとか、他にもいろいろできたんじゃないかと…)。逃走する道中、全高数十メートルもあろうかという巨大な6本足の動物が彼らの前を横切ったとき、一種の感動にも似た表情が彼らの顔に浮かんだ。そのときに、ヒトはこの異世界では一番下の存在なのだということに気づいてしまったのかもしれない。だから、ヒトとしてのプライドを保ちながら死んでいきたいという欲求から「自_殺」という行為を選択した? しかし、どれだけ好意的に解釈したとしても、個人的にはラストはネガティブである。追い詰められるだけの恐怖は体感したが、それでも生きる可能性を最後まで探すことでヒトであることのすばらしさを見せて欲しかった。映画用に加えられた部分なだけに本家も了承はしているのだろうが、たとえ逆説的に生きる意味を伝えようとしたかったとしても、この皮肉的な終わらせ方はいかにも残酷だ。

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