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September 28, 2007

デリカシーの問題

今朝、テレビは一人の日本人が凶弾に倒れるその瞬間を映し出していた。
いつからだろう。人が死ぬその瞬間までも公衆の面前に晒すようになったのは。映像としてみれば実にあっけない。ぱたりと倒れたまま動かなくなるだけだ。なんと簡単で無感動なんだろう。「現象」だけ見てしまうと、恐ろしさや怒りといった感情は入り込む余地がない。その有無をいわさぬ冷酷さが、逆に人として持っているべき「死」に対する畏怖や尊厳を喪失させてしまう。人を短絡的に殺す事件が増えているような気がするのも、「死」がどこか他人事で、なくなっても世界は何事もなかったかのように存在し続ける事に対する諦観が、ある種の資質を持った人間を侵していることが遠因なのではないかと思うのだ。
京都の親殺しの犯人がサブカルの影響を受けた女の子で(サブカルそのものを危険視するものではないが)、この事件を受けて殺す場面を想起させるようなシーンを含むアニメが自主的に局の判断で放送見送りになった(これはこれで過剰反応ではないかという批判がある)。その一方で、なぜ、生の人の死に様は、しかも朝、子供だって見ている時間(アニメは深夜帯だった)に平然と全国に向かって流されるのだろう。このシーンを誰も「残酷」だとは思わないのだろうか。もしそうでなければ、その時点でもはや感覚が麻痺しているとしか思えない。
もともと中止になったアニメはゲームがベースになっていて、ゲームは個人の嗜好で選ぶものだから、それを規制するしないはまた別の判断が働くわけだけれど、メディアから一方的に流れてくる情報は選びようがない。いつ飛び込んでくるかも分からないのだから防ぎようもない。百歩譲ってアニメは嗜好性があるがニュースは無指向で容赦がない。だからたちが悪いし危険度も高いのだ。
人の死を伝えるときに、その映像を用いなければならないことは全くなく、彼を惜しむ気持ちやミャンマー当局に対する怒りは、その報道の仕方によって十分表現しうると思う。むしろ映像を使うことによる様々な影響をメディアは考えなければならない。その上で、責任を持たねばならない。生っぽいものはすぐにyoutubeで流れる。好奇心で動くやからは勝手に探すだろう。それは止めようがない。しかし、少なくとも無関心な人やできる限り見せるべきではない人たちまでも巻き込むのは止めるべきなのだ。
テレビ離れという話はよく聞く。しかし、ネットに対抗して視聴者を取り戻すためにこういった映像を垂れ流すのだとすれば、テレビそのものが劇場化し、最終的には虚空化していくに違いない。メディアは社会の理性と良識を映す鏡であってほしい。望むものが全て手に入ることは決して良いことではないのだから。

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