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December 21, 2006

BLACK LAGOON #24 The Gunslingers

エンディングへのもって行きかたはオリジナル。クライマックスの言葉のやり取りも微妙にいじくってあって、それが逆に雪緒の心情を分かりにくくしている。サイコロの話にすりかえられてしまったことで、レヴィのいう「言葉の弾丸」の意味が今一画面から伝わってこない。生き死にの問題なのに。なぜ雪緒が命を絶たなければならなかったのか、原作を知らない人には正直分からなかったのではなかろうか。

雪緒が命を絶つシーン自体は放送コードだから仕方がないにしても、もう少しましな演出は考えられなかったのか。DVD版では正当な表現がなされている事を期待したいところだ。ほんとに、テレビ版の結末には釈然としないモヤモヤが残ってしまった。
物語の終盤、原作にはない雪緒のロアナプラへの憧憬は分からなくもない。彼女の聡明さがバラライカの持つ狂気に触れたときに、彼女の極道の娘としての本質が覚醒してもおかしくはないと思う。でも、そうならば、あのエンディングは逆に不自然に思える。銀次が逝こうと彼女自身が死を選ぶはずはない。単身でもバラライカに迫るはずだ。同じ“自殺”にしても、特攻してそして撃たれて死ぬ。その方が全然腑に落ちる。
雪緒を助けたい一心で命を張ったロック、助けられた命を賭してまで仇敵バラライカを仕留めようとする雪緒の執念、そして無慈悲にもバラライカは喜んで雪緒を葬ることだろう。この皮肉な結果、因果はきっとバラライカの好物だ。ロアナプラの挿話は雪緒の銀次への想いを希釈させ、オリジナルのエンディングそのものを無力化してしまう。「ロアナプラへの気持ちが冷めた」ではまさに興ざめである。
原作の解釈はもっとシンプルだ。とどのつまり悲恋なのだ。半端者には生きる場所がない。結局どちらの側にも落ちることが出来なかった雪緒が、銀次とともに“生きること”を選択したゆえの自害である。銀次に対する気持ちが根っこにあり、さらに、前に進むことも退くこともできなくなってしまったことに気づいた雪緒の選択する道は一つしかなかった。銀次と逃げることもできたはず、そういうサイコロの振り出し方もできたはず、そのロックの問いかけに雪緒はついに生きる者としての本音を吐き出す。義理と人情の葛藤の中、選ばざるを得なかった雪緒のやるせなさに身を切られる思いがする。行き場を失った純心に哀れみを感じるのだ。

なぜTV版はあのようなノイズを乗せてしまったのだろうか。もしその方向で行くのなら、前述のように原作とは全く違った結末を用意しても良かった。いや、そうすべきだった。演出においても、例えば、銀次を迷わせた高市のフラッシュバックも、せっかくの映像なんだからもっと見せ方があったはずなのに、中途半端に原作に縛られてしまっている。原作が終わっていないところでアニメ化される作品が多い中、これはすでに完結しているものを映像化したわけだが、結末が固定されることでのデメリットがモロ出てしまった。こんなことなら、最初から最後まで忠実にトレースしてもらった方がナンボか良かった。

救いはロックの変容がしっかり描かれていたことだろうか。ロックは香砂会組長を“殺し”、そして自分の思慮の浅さから雪緒をも“殺してしまった”。ロックが自分のたっているところが自分の居場所だと言い放った覚悟は半端ではなかった。自分の目の前で死んでいく人たち全ての業を背負って生きていく覚悟に、軽い感動を覚える。ロックの雪緒を救えなかった無念、夕闇に生きる覚悟は、確かに伝わってきた。

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